【友人代表の弔辞】安倍晋三元首相国葬にて菅元首相が捧げた追悼の辞

 

2022年(令和4年)7月8日、参院選の街頭演説中に銃撃され67歳で死去した安倍晋三・元首相の国葬儀が9月27日、東京都千代田区の日本武道館で営まれました。

 

その国葬で友人代表として管義偉氏が述べた追悼の辞の全文をご紹介いたします。

友人代表・菅義偉氏の弔辞全文

 

友人代表・菅義偉前首相の追悼の辞の全文です。

 

【友人代表弔辞】

 

『七月の、八日でした。

 

信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。

 

あなたにお目にかかりたい。

 

同じ空間で、同じ空気を共にしたい。

 

その一心で現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかなほほえみに、最後の一瞬、接することができました。

 

あの運命の日から、八十日が経ってしまいました。

 

あれからも、朝は来て、日は暮れていきます。

 

やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。

 

季節は、歩みを進めます。

 

あなたという人がいないのに、時は過ぎる。

 

無情にも過ぎていくことに、私はいまだに許せないものを覚えます。

 

天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を召し上げてしまったのか。

 

くやしくてなりません。 哀(かな)しみと怒りを交互に感じながら、今日のこの日を迎えました。

 

しかし、安倍総理・・・・・・と、お呼びしますが、ご覧になれますか。

 

ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。

 

二十代、三十代の人たちが少なくないようです。

 

明日を担う若者たちが大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。

 

総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。

 

若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。

 

そして、日本よ、日本人よ。世界の真ん中で咲きほこれ。

 

ーーーこれが、あなたの口癖でした。

 

次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。

 

いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みを共にした者として、これ以上にうれしいことはありません。

 

報われた思いであります。

 

平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。

 

私は、当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。

 

すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と電話をかけてくれました。

 

「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。

 

信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。

 

その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感いたしました。

 

この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。

 

私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として揺るがなかったことであります。

 

総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。

 

そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。

 

最後には、二人で銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命あなたを口説きました。

 

それが、使命だと思ったからです。

 

三時間後には、ようやく首をタテに振ってくれた。

 

私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。

 

総理が官邸にいるときは、欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました。

 

いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざとよみがえってまいります。

 

TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。

 

総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。

 

一歩後退すると、勢いを失う。

 

前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。

 

総理、あなたの判断はいつも正しかった。

 

安倍総理。 日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました。

 

どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。

 

あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。

 

国難を突破し、強い日本を創る。

 

そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。

 

そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは常に笑顔を絶やさなかった。

 

いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。

 

総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。 私は本当に幸せでした。

 

私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。

 

何度でも申し上げます。

 

安倍総理、あなたは、我が国日本にとっての真のリーダーでした。

 

衆議院第1議員会館1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。

 

岡義武著『山県有朋』です。

 

ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。

 

そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。

 

しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。

 

総理、いま、この歌ぐらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。

 

かたりあひて  尽しし人は
先立ちぬ  今より後の  世をいかにせむ

 

かたりあひて  尽しし人は
先立ちぬ  今より後の  世をいかにせむ

 

深い哀しみと、寂しさを覚えます。

 

総理、本当にありがとうございました。

 

どうか安らかに、お休みください。

 

令和四年九月二十七日  前内閣総理大臣 菅義偉』

 

 

 

安部元首相の国葬で、友人代表として追悼の辞を述べた自民党の管義偉(すが よしひで)氏は、朴訥とした語り口で安部氏との親交をしんみりと振り返りました。

 

管氏は第二次安倍内閣で官房長官を務めていました(令和2年9月 自由民主党総裁 第99代内閣総理大臣に就任)。

 

国葬には岸田首相ら「三権の長」や皇族方、海外要人をふくむ4183人が参列し、憲政史上最長の通算8年8か月にわたって政権を担った安部元首相の冥福を祈りました。

 

首相経験者の国葬は1967年の吉田茂氏以来55年ぶりで、戦後2例目となります。

 

国葬会場近くで行われた一般献花には2万5889人が訪れました。

あとがき「弔辞とは・・・」

 

 

花祭壇

 

管氏が追悼の辞を読み終えると「葬儀会場としては異例の拍手で包まれた」と各メディアが報じていました。

 

語られた言葉が、多くの参列者の心に浸透し、奥底から突き動かすものがあったのでしょう。

 

一般のお葬式でも、心に響く弔辞のあと、思わずといったふうに拍手しかけた手を、ハッとなって膝に下ろすという不自然な動きをしてしまう方を、度々目にします。

 

多くの時間を共有し、切磋琢磨した友との死別はどのような立場のだれであってもつらいものです。

 

ましてや、その死が唐突であればあるほど、志半ばであればあるほど、ましてや死をもたらす原因が暴力によるものであるならなおさら、その事実は残された者の心をひきちぎり、癒えようのない残酷な傷を、深く深くえぐるように刻みつけます。

 

大なり小なりその傷を抱えながら、多くのお葬式で多くの方が、それぞれ亡き友と過ごした時間をたぐりよせるように思い起こし、ふるえる心をおさえながら、出会えたことに感謝するのです。

 

そして、遺されたわれわれが知り得ぬ、その魂の行方を按じ、どうかやすからんことを切に祈るのです。

 

その心を、なんとか言葉にあらわし捧げた追悼の辞は、故人にもっとも近しい遺族の心をもなぐさめるものとなるでしょう。

 

事実、わたしとわたしの家族は、亡き弟にいただいた弔辞を、その後、幾度となく思いかえし、なぐさめられ、果てのない喪失感を癒やそうとする力となってくれています。

 

また、わたしが司会者としてかかわった方々の中にも、亡くした家族におくられた弔辞を大切にされている方は非常に多いです。

 

すでに棺に納めてしまい、それが手元になくても、そのときの記憶を呼び覚まして、法事のたびに話題にして笑顔になっていく方々も、います。

 

弔辞は亡き人への最後の贈り物であり、また遺された近親者にとっての「記憶の形見」ともなり得るのだと、わたしは思っています。

弔辞作成の手本とするポイント

 

管氏の追悼の辞は、今まさに大切な方のお葬式に弔辞をささげたいと考えている方にとって、よいお手本となると思います。

 

ただし、参考にするのなら、そこに書かれた言葉一つひとつをまねるのではなく、全体の雰囲気をとらえてくださいね。

 

選ぶ言葉のやさしさや文章全体の流れ、肩肘を張らない親しみなど、いかにあなたらしい言葉で思いをつづるか、ということのお手本にしてみてください。

 

きっと、あなたにしか書けない追悼の辞に仕上がると思いますよ。

有名な歌や言葉の引用について

 

管氏の弔辞には、伊藤博文の死を悼んだ山県有朋の歌が引用されていましたが、弔辞には俳句や短歌、詩などが織り込まれることもよくあります。

 

故人になんらかのゆかりのあるものを引用するため、複数の方が弔辞を読まれるようなお葬式では、同じ引用がかぶるケースも、たまにあります。

 

2番目以降に弔辞を読まれる方は、念のため第二候補となる引用文を用意しておくのも、対策の一つです。

 

メモ書きで持っておき、「あ、同じ歌を使ってる」となった部分のみを第二候補に差し替えて読むことができます。

 

それが難しいようなら、書き上げた文章のまま読み上げても一向にかまいません。

 

ほんのわずかでも心の余裕があるなら「やはり、私もあなたには、この歌(言葉)をささげたいと思います。この歌ほど私の・・・いや、皆の気持ちをあらわしたものはないでしょう」といった一言を添えると、無防備な印象は拭えると思います。

 

うろたえないのが一番です。

おわりに

 

司会という立場を通して、これまですばらしい弔辞は数多く聞いてきましたが、それを勝手にブログに掲載することはできません。

 

今回、国葬ということもあって各新聞、各メディアを通して弔辞(追悼文)の全文がすでに披露されていることもあり、そこで中継動画より書き起こしたものを、ここにご紹介させていただきました。

 

「かたりあひて 尽しゝ人は先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

 

管氏の弔辞に引用されたこの歌は、『山県有朋』(岡義武著)に記されています(実家の父の書棚に古びた文庫本で発見、で、急いで拾い読み)。

 

著書の中で、山県有朋(やまがたありとも)は伊藤博文との松下村塾より50年にわたる交友や、政治的交渉の数々を回想し感慨に沈んだ、とあり、「かたりあひて~~」の歌が紹介されています。

 

後に山県は身近なひとびとに「伊藤という人間はどこまでも好運な人間だった。死所をえた点においては自分は武人として羨ましく思う」とも述懐した、とあります。

 

殺伐&激動の時代に生きた武士であり軍人であった山県の言葉なので、カチコチなうえアレですが・・・。

 

現代でも、仕事に夢中になっている方なら「死ぬときは職場で死ねたら本望だ」などと、健康を顧みずに仕事に没頭する人、多いですよね。

 

「過労死がなんぼのもんじゃ」とか・・・。

 

もうね、なんだかな・・・と思いますけど。

 

歴史好きでもないので、深読みはできませんが、この言葉を現代の一般日本人が言ったとすると「それでも、君の人生は実り多く、幸せなものだったよね」とでもなるでしょうか、これもまた弔辞の中に書き加えられることの多い一文です。

 

これは、遺された側の切望ですよね。

 

何十年経てば、山県のようにしみじみ述懐することができるようになるでしょうか。

 

今はまだ、自分をなぐさめるためにつぶやく言葉です。

 

松下村塾とは?

 

吉田松陰が主宰した私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」は、知識を得るだけの学問ではなく、志のある人材育成を目指しました。

そのため、受け身となる講義よりも討論・議論することで教え子たちの長所を伸ばすことを重視した学びの場でもありました。
幕末には高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、日本の近代化に重要な役割を果たした人材を輩出しました。